【小説】こちらあみ子(今村夏子) 感想
なんとなく読んでみたら相当な悲劇の話だった。
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。
解説: 町田康・穂村弘
あらすじ、確かに間違ったことは言ってない。
デビュー作とは思えない筆致だと思って作者のwikiを調べたらデビュー作どころか初めて執筆した小説らしい。陳腐な言葉だけどセンスが凄い……。
以下、ネタバレ込みで感想です。表題作と収録作「ピクニック」について。
1.こちらあみ子
他人と同じように行動できない・考えられないあみ子の視点で語られる、あみ子の存在によって崩壊していく周囲の物語。
信頼できない語り手であるあみ子の目線で、周囲があみ子のせいで崩壊していく様子を、あみ子がなぜ崩壊するのか理解できないまま語られていく。
読者である私が得られる情報量の1/5すらも、語り手であるあみ子は知ることができない。どこまでいっても平行線で、絶望的なディスコミュニケーションの話だと思った。
①周囲の悲劇/あみ子の悲劇
あみ子の家族やのり君といった人たちの作中の悲劇は、自分の感情があみ子には伝わらないことに全て起因している。
一方、あみ子の悲劇はあみ子と言葉を交わすことができる人が誰もいないことだ。
あみ子の「好きじゃ」とのり君の「殺す」が交錯するシーンが一番端的に表れていると思う。
「殺す」は全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、のり子の 言葉だけがあみ子をうった。好きじゃと叫ぶたびにあみ子のこころは容赦なく砕けた。
のり君はあみ子のことは決して好きじゃないけど、親の言いつけで優しくしているだけ。それがあみ子には伝わらない。子どもに限った話ではないけれど、自分は全く好きじゃない異性との仲を周囲に囃し立てられるのはものすごい苦痛だ。
けれどのり君がどんなに拒絶してもあみ子には伝わらない。あみ子は「自分がどうしたいか」で常に行動している。相手のことを考えることはできても、相手の気持ちを考えて行動することはできない。
あみ子はのり君に「殺す」と言われたことに傷ついてるのではなく、あみ子の「好きじゃ」がのり君に一切伝わらないことに打ちのめされている。
傍から見ると、あみ子が普通の人と違うことを周囲が理解できなかったのか、と思われそうだけれど、実際に自分があみ子の親族だったり同級生だったりした場合に、あみ子のことを完全に理解しあみ子の行動に傷つかないでいられる自信は私にはない。
一番ぞっとしたのはお母さんの病気についてだ。
年取った大人が、それも自分の母が、料理も作らず掃除もせず、やる気のないままに一日中部屋にこもって姿を見せない。骨折したわけでも手術したわけでもなく、ただこころが悪いのだという。それだけの理由で部屋を占領し、その上入院なんてできるものだろうか。父は母のことを少し くらい叱りつけてもよいのではないか。いつかの晩、あみ子のことを押したみたいに、母の体を押して押して押しながら、一度台所まで運んでしまえば母のやる気だって戻るかもしれない。
あみ子がお母さんの病気を理解できないように、家族もあみ子のことを理解できなかった。
家族だから互いのことが理解できる、なんて幻想は捨てるとしても、一緒に暮らしている以上お互いのことを理解しようと努めたことはあるはずだ。努めた上で最終的に放棄することを決めたのだと思う。
②あみ子のようになりたいか
あみ子は純粋で一途だ。それはかつて幼かったころの私が持っていた性質だと思う。
ただ歳を取った今、あみ子のようになりたいとは思えない。
あみ子の純粋は他者の感情を介さないから成り立つものであり、それは同時に他者に自分のことが理解されない孤独を受け入れなければいけない。
応答せよ。応答せよ。こちらあみ子
あみ子にとって自分が他者に受け入れられないことが悲劇だと本作でずっと書かれているから、あみ子のようになりたいとは全く思えない。
2.ピクニック
オタク視点で訳すと「現実と妄想の境目がつかないが他者に害のない強火夢女子を取り囲んで囃し立てるフォロワー」の話。
テラスハウスの一件を見て思うけど、自分とかけ離れた人格の人間を同等の人間ではなく、「コンテンツ」として見る癖が大なり小なりどんな人にもある。私も例外ではない。
Twitterのオタクには自分がコンテンツである自覚がある者とない者の二種類に分かれるけど、いずれにせよ一人の人間をコンテンツ扱いする危険性を忘れてはいけない、と自戒する。
表題作は検索したら中学受験の国語の問題として取り上げられたことがあるらしい。自分が小学生の時にこの本を読んで理解できた気は正直しない。