Yの悲喜劇

Yの悲喜劇

腐女子/商業BL/読書/漫画/アニメ

【小説】汚れた手をそこで拭かない(芦沢央) 感想

 第164回直木賞芥川賞候補作が発表された。

www.oricon.co.jp

 今回の直木賞候補は全員初の候補入りなので受賞作が予想つかなくて楽しい。

 既読は3作品で、先日読んでめちゃめちゃ面白かった「汚れた手をそこで拭かない」(芦沢央)が入っていてうれしい。とてもうれしい。

汚れた手をそこで拭かない (文春e-book)

汚れた手をそこで拭かない (文春e-book)

 

平穏に夏休みを終えたい小学校教諭、認知症の妻を傷つけたくない夫。
元不倫相手を見返したい料理研究家……始まりは、ささやかな秘密。
気付かぬうちにじわりじわりと「お金」の魔の手はやってきて、
見逃したはずの小さな綻びは、彼ら自身を絡め取り、蝕んでいく。

取り扱い注意! 研ぎ澄まされたミステリ5篇からなる、傑作独立短編集。

 全5編、大変レベルが高いミステリ短編集。著者の過去作品「許されようとは思いません」と同じく、トリッキーなプロットで楽しめ、人間の脆弱さを嫌味なく見せつけられる。ただ5作中3作は倒叙モノのため、「許されようとは思いません」ほど鬱々としないのがいい。

 

 以下、ネタバレ込みで感想です。

 

 

1.犯罪を犯すのはどういう人か

 全作読んだわけではないので断言はできないけれど、芦沢作品において、ふとしたはずみで犯罪を犯してしまうのはおしなべて真面目な普通の人だ。日常生活をつつがなく送ることを常としているからこそ、いったん落とし穴にはまってしまうと抜け出そうともがいてとんでもない犯罪を犯してしまう。

 今作の中だと「埋め合わせ」が特に顕著だ。プールの水をちょっとしたミスで流失させてしまったことからミスを隠蔽しようと奔走する小学校教師の話だ。

 ミスが明るみに出た場合の賠償金は作中で語られる通り13万円で、人によってはたったそれだけのお金でこんなことするの? と思うだろうけど、この教師はたった13万円が払えない事ではなくミスが明るみに出ることを恐れている。「怒られたくない」という心理が真っ当な倫理を排除し隠ぺい工作に走らせる。気持ちは分かるだけに教師の憔悴っぷりが痛ましくて面白い。

 「埋め合わせ」が面白いなと思ったのは、この「怒られるのが嫌でミスを隠蔽しようとする真面目な」主人公の対照としてちゃっかり者の同僚教師が出てくるところだ。ちゃっかり者の同僚教師は最終的にプールの水の流失をより大事にし、彼が本当に隠したかった「競馬ですった金」の存在の埋め合わせを行う。

 ちゃっかり者と主人公とでは優先順位が全く違うのだ。「お蔵入り」もそうだったが、主人公と全く違う論理で動いているから、主人公の思惑が上手くいかなくなる。芦沢作品らしい真面目な人がはまる落とし穴を、では真面目ではない人が同様の目に遭ったらどうするのか、という一つの回答が示されている。

 こんな風に生きれたらいいな……と思う。

2.「ミモザ」考察

 他の作品も後味が良いとは(「ただ、運が悪かっただけ」を除いて)いえないが、収録作ラストの「ミモザ」の後味の悪さは別格だ。しかし同じ主婦が陥る地獄として「許されようとは思いません」に収録されていた「姉のように」が分かりやすかったのに対し、「ミモザ」は一読した時点では「なぜこんなに後味が悪いのか」と思った。

 「ミモザ」は振り返ると、主人公の行動原理がよくわからない。料理研究家としてサイン会を開けるほどの地位を築いたのに、かつての不倫相手に会いに行くなんて自殺行為だろ……としか思えない。

私は、この男を見返してやりたかったのだ。

あなたが軽んじ、踏みにじった小娘は、いつの間にかあなたよりも高い場所まで上っていたのだと。

 この心理は分かるが、今成功しているのに昔の瑕疵にそこまでこだわらんでもいいんじゃないの、と思った。

 再読して全てが氷解したのはラストの夫の描写だ。

『何考えててもいいけど、ちゃんとしてよ』

 玄関に自分のものではない男の靴が転がっていたら妻の浮気にたどり着くのは普通だ。しかし妻の浮気に激高せず、「ちゃんとしろ」と暗に示してくる夫は正直普通に思えない。この夫、妻をどう思ってるんだ……? と思ったところで血の気が引いた。

 「ミモザ」の後味の悪さは、男に支配されて、虚栄で着飾って生きていくしかない女の地獄によるところだと分かった。

 「ミモザ」で夫がしゃべるのはラストシーンのみで、それ以前は主人公の言葉や描写で語られる。

「夫は、優しい人です」

私は答えながら、英作文みたいだなと思った。

  配偶者や家族を説明する時の言葉なんて定型的になるよな、と思ったけど、ラストを読んだ今振り返ると主人公から語られる夫のエピソードそのものが、本当にあったものなのか疑わしくなる。相手に話して聞かせたら羨ましく思ってもらえるエピソードを創作しているだけじゃないのか。

 セックスレスなのは夫の仕事が忙しくて、冷たく感じるだけかもしれないけれど……疑念は消えない。

 料理研究家として成功し自分の収入だけでもタワマンに住めるくらいの地位を築いている女性でも、虚栄を繕って夫の顔色をうかがって生きていくのか……と思うと心底ぞっとする。

 ラストにこの話を据えたのは以下の会話があるからかなと思ったけど、通して読むと真面目な人ほど一度穴に落ちるとどうしようもなくなる絶望が強調されていると感じた。

「私、あなたに何かした?」

「別に」

頭上から、白けたような声が返ってくる。

「だったらどうして……私は悪いことなんてしてないのに」

「悪いことをしたから悪いことが起こるとは限らないんだよ」

 

 

 直木賞芥川賞受賞作発表は1/20。どのような結果になるのか楽しみですね。