Yの悲喜劇

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【アニメ・映画】シン・エヴァンゲリオン𝄇劇場版を見終えて

 見てきました「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」。

  新劇場版はリアルタイムで追っていましたが、TVシリーズや旧劇場版は大学生の時に一気見した程度なので、言うほどエヴァに思い入れはないのですが、それでもエヴァンゲリオンが終わったという事実に感慨があります。

 一つの時代が終わったんだな、と実感しました。

 

 以下、自分なりの整理をしつつの感想です。ネタバレしかないのでまだ見てない方は映画に行ってからお開きください。

 

1.新劇場版についての整理

①新劇場版とはなんだったのか

 メッセージとしては「大人になれよ子どもたち」でしょう。

 そしてエヴァンゲリオンを純然たるエンタメではなく庵野秀明氏の私小説の側面があるととらえた時に、新劇場版は旧劇場版でもできなかった「エヴァンゲリオン=子どもの精神で作り上げたエヴァを、大人として終わらせるための儀礼」だったのだと思います。

 シン中盤のヴンダー艦隊戦がBGM等からノーチラス号のセルフオマージュであり宇宙戦艦ヤマトへのリスペクトだったと思うので、それを踏まえると庵野秀明氏が子ども時代にさよならを告げるにあたっての餞だったのでしょう。

②「エヴァンゲリオン」とは

 新劇場版におけるエヴァンゲリオンは「子ども」の象徴でしょう。そのためエヴァに近しいパイロットやネルフの人間は基本的に子どもです。

 これは姿かたちが子どもであるパイロットだけでなく、冬月やゲンドウといったネルフの中心人物や、序~破までのミサトも「身体だけ大人になった子ども」です。

 新劇場版はシンジくんの成長物語が軸になっているですが、厄介なの「こうあるべき大人像」に見合った大人が終盤までほとんど表れないことです。

 シンジくんがお手本にするべき大人が身近にいないので暴走したため、シンジくんと同じ子ども(シンジくんよりは少し大人だけど)であるカヲルくんがシンジくんのメンターを引き受けた。けどカヲルくんも大人になれない子どもなのでカヲルくんはメンターになりきれず爆死し、シンジくんのメンタルも崩壊した……というのが私なりのQの要約です。

 新劇場版においてエヴァンゲリオンの世界とは「大人になったら解脱する世界」であり、だから村で人としての営みによる喜びを知った綾波や、ケンケンという大人に甘えてもいいことを悟ったアスカが退場していったのでしょう。

碇ゲンドウについて

 先ほど触れましたが、碇ゲンドウは新劇場版においては「身体だけ大きくなった子ども」です。子どもなのでシンエヴァ終盤でエヴァ13号機を操ってシンジとダイナミックな父子喧嘩ができたし、子どもなのでシンエヴァで最後に解脱することになった。

 で、これは旧劇場版がなぜあんな結末になったのかの推論になるのですが、新劇場版のエヴァンゲリオンにとって碇ゲンドウ=「こうあるべき大人像であり父親像」だったため、目指すべきシンジくんの成長が描けなかったことにあるんじゃないかと思います。

 シンジくんの成長には、父である碇ゲンドウが自身の幼児性を自覚して成長することが不可欠だったのですが、碇ゲンドウを「こうあるべき大人像・父親像」から動かすことができなかったためシンジくんもつられて成長できず、むしろ成長を拒絶した結果のアレだったのではないかと。

 いやゲンドウの「人に自分の要望を押し付けながら説明を求められると理不尽な圧かけて逃げる」姿は「あるべき大人像・父親像」としてはダメだろと思うのですが、現実にこういう大人がいっぱいいる以上、当時の庵野秀明氏はじめとしたスタッフにとってはゲンドウこそが「こうあるべき大人像・父親像」だったのかなと思います。

 シンエヴァを見た今、エヴァはそもそもゲンドウがユイの死を受け入れてシンジくんと向き合い、一緒に晩御飯を食べていればそれで終わる話でした。

 碇ゲンドウを新劇場版でようやく「身体だけ大きくなった子ども」と定義できたので、「自分の子どもに自分の苦悩を告白する」という大人になり切れない子どもとして一番恥ずかしい行為を経て、ようやく碇ゲンドウも大人として解脱することができたわけです。

エヴァンゲリオンにおける「大人」とは

 エヴァが「子ども」の象徴なら、新劇場版作中における「大人」の象徴は安野モヨコです。

 えっ何言ってんの?と思われたかもしれませんが、旧劇場版~新劇場版までの間に庵野秀明氏にあったことと言うと安野モヨコとの結婚なんですよね。結婚生活を経て「こうあるべき大人像」を再度定義しなおすことができたから新劇場版を作ることができたんじゃないかなと思います。

 新劇場版での「こうあるべき大人像」は碇ゲンドウではなく、トウジやケンケンといったシンエヴァの村の人々です。村が「大人」の集合体だからこそ、村に当たり前のようにシュガシュガルーンがあるわけです。

⑤マリについて

 正直よくわかってないところの方が大きいんですが、エヴァにおいてマリはエヴァパイロットでありながら破で登場した時点でミサトの指示を受けずに単独行動ができる=「責任を背負って動くことができる大人」でした。

 「イスカリオテのマリア」は見終わった後検索したのですが、文脈的には冬月が「俺たちを残してお前一人だけ大人になりやがって」とマリを指したのでしょう。

 新劇場版の目的が「大人になること」ならば、大人になったシンジくんが最後に「最初から大人であった」マリの手を取るのは道理だなと思いました。

2.エヴァンゲリオンを見終えての感想

 正直、大人になった庵野秀明に「一人だけ大人になってんじゃねー!」と言う気持ちが全くないというと嘘になります。

 ただそれよりもエヴァという一つの時代の終わりを希望にあふれたビジョンで示してくれたことへの感謝の方が大きいです。

 キャラクターが大人になっていく過程が、そのままエヴァという作品の卒業につながっているんですけど、「人と人がかかわりあっていく社会」の在り方の暖かさに、卒業していいんだなあと思えました。エヴァでこんなに清々しく優しいラストになるとは思わなかったのでびっくりです。

 あとはこれが最後だ!と言わんばかりのバトルシーンは全て圧巻で、単純に見ててとても楽しかったです。マリアスが2人手を取り合って殴りこんでいくシーンはプリキュアでした。

 

 まだほかにも言いたいことはありますが、見れてよかったです。一つの時代の終わりに立ち会えたことに感謝します。